唐沢山城跡の概要

唐沢山城跡の概要

自然が豊かな唐沢山一帯は、栃木県立自然公園に指定され、四季折々の散策やハイキングを楽しむことができます。山頂には、藤原秀郷をまつる唐澤山神社本殿が建ち、毎年正月には多くの初詣客で賑わいを見せるなど、古くから市民に親しまれてきた山でもあります。

平安時代の末から佐野庄を統治した佐野氏が築いた唐澤山城は、標高242mの急峻な山頂を本丸として広範囲に城造りの跡が残っており、国指定史跡の面積は194haにのぼる大規模なものです。山頂付近では、各方面に延びる尾根上に曲輪(くるわ:石垣や堀などを設けて場内を区画した敷地)がいくつも配置されています。本丸跡には、西側に虎口(こぐち:出入り口)があり、城門の礎石も残っています。

これらの石垣は、安土桃山時代のもので、関東地方には珍しく豊臣方の高度な石垣技術を導入して積まれたものです。これら石垣を多用した中心部から周辺に目を向けると、唐沢山城は、土づくりの時代があったことを示す堀や土塁が山内に広がっており、戦国各期に手がけられたいにしえの城の様子を偲ぶことができます。

築城の時期については、藤原秀郷が天慶5年(942)に築いたとする伝承もありますが、現在のところ、この時代の資料や跡は確認されていません。関東地方では、応仁の乱に先駆け享徳の乱が勃発(1454)しましたが、古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立による戦乱の中、各地の領主が防衛のために多くの城を築いていきました。僧侶が記した文明3年(1471)の日記に、「天明の上の山 佐野城」に関する記述があり、この頃、天命(明)の上(北)に山城がすでに築かれていたことがわかります。唐澤山城は当時「佐野城」と呼ばれていたようです。

唐澤山城は、要衝の地にあるため、関東制覇をもくろむ小田原の後北条氏や越後の上杉氏から度々攻められました。上杉謙信は佐野氏を配下にした時期には、重臣を唐沢山城に置いたこともあります。その後、謙信が死去し城主佐野宗綱が彦間で討死すると、北条氏忠が婿入りし、唐沢山城を乗っ取りました。天正18年(1590)、城主の子で豊臣秀吉側近にもなった天徳治宝衍(てんとくじ ほうえん)が城を奪還し、秀吉の重臣富田氏の子信種を養子(佐野信吉)として城主に迎えました。本丸周辺の高石垣は、信吉の時代に築かれたと考えられます。このように、唐沢山城は、関東戦国史の中でも希に見る争奪の舞台になり、各氏による城普請が繰り返され、大規模で堅牢な城へと造られていきました。